深い心の支えにしたい二冊「「こころ」はどこで壊れるか」「「こころ」はだれが壊すのか」

かなり以前に購入していたがなかなか読めなかった二冊。
これは強力におすすめ。特に援助専門職の方々は一度は読んでほしいと思う本。

前者は佐賀バスジャック事件や宮崎勤事件、本当に犯罪は「若年化」しているのか、そして学校に増える「発達障害」への対応などを切り口に、こころを過度に聖域化し専門家預かりにしたがる現象について解きほぐし、豊かさをスタートラインにしている現代社会においては自分ひとりだけが「人並み」から落ちこぼれることへの不安の大きさ、子育てでの失敗率が下がっているがゆえに失敗へのまなざしの厳しさが増し、失敗へのおそれが肥大していることなどが丁寧に語られている。
対話形式で進められる内容は、まるで読者自身が滝川先生のセラピーを受けているかのように安心して読み進められ、「そうだったのか!」と目からうろこが落ちたり「そうそう、よくぞ言ってくれた!」とすっきりしたりの連続だ。
そして背景に、本来コストをかけなければならない子どもに関わる支援の領域(児童精神科、児童相談所など)の部分にコストをかけずにその「怠慢」を責めるマスコミを代表とする「識者」の姿勢への大きな怒りがある。

以下「「こころ」はどこで壊れるか」からのメモ書き抜き出し。

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「「分類」は「診断」ではない」
「精神療法(心理療法)は特殊な技術ではなく、わたしたちが日常している常識的な問題解決法の延長上のこと」「日常の解決法をもう少し洗練させたり煮詰めたりした技法的工夫がなされているという違いがあるだけ」
「良くも悪くも家族間の心理的なつながりや関係のあり方が煮詰まりやすくなっています」「実際にはそれらは希薄化どころか、むしろ全体傾向としては濃密化していますね」「家族関係がそこに依存する度合いが高まったぶんだけ、何か薄れているのではないかという不安や強迫観念に脅かされがちになった」
心理療法における受容とは、相手の感情や考えを、こちらの価値観や立場によって裁断せず、そのままに「理解」するということで、相手の要求や行動をそっくり「許容」することではありません。」
「子どもたちの行動様式やモラルの変容は、社会全体の、つまり大人たちの行動様式やモラルの変容の問題。さらに掘り下げればわが国の社会的・経済的な構造変化の問題が根底にある。それを子育てや教育の問題にすりかえて、本質から目をそらすのはもうやめよう」

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紀伊国屋BookWeb掲載の書籍紹介及び目次は下記の通り。
「こころ」はどこで壊れるか―精神医療の虚像と実像

精神科医は本当に「こころ」の専門家なのか?青少年の不可解で凶悪な事件が起きると、マスコミは精神科医という識者を登場させ、コメントを求める。
あれは精神異常=頭がおかしい人間の犯罪だ、と。
一般人の不安をなだめるための、この「正常‐異常」の線引きは、あまりにも安易と言っていい。
こうした風潮に対し、木村敏中井久夫の道統を継ぐ練達の臨床精神科医が、「こころ」とはなにかから時代の病態まで、精神鑑定から「脳」と犯罪の問題まで、さらには昨今の青少年の社会的引きこもりから拒食症・過食症家庭内暴力まで、きわめて今日的な問題に果敢に発言する刺激的インタビュー集。

序章 「こころ」とはなにか
第1章 「こころ」はどうとらえられてきたのか
第2章 DSMは「分類」のためのマニュアルにすぎない
第3章 精神医療と犯罪
第4章 発病と診断と治療をめぐって
第5章 思春期犯罪の神話はがし
第6章 思春期問題への家族論的アプローチ
終章 「こころ」はどこで壊れるか

一方「「こころ」はだれが壊すのか」は、前著を受けて池田小事件や児童虐待報道などを切り口に、「あなた任せ精神医学化」による「社会のふところを浅くする」動きに警鐘を鳴らす。
また援助者としての関わり方を語る言葉も非常に深く、つい「診断」して相手をわかった気になったり、すぐに「自己理解」を切り口にしようとする自分自身を猛省させられた。

以下「「こころ」はだれが壊すのか」からのメモ書き抜き出し。

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「無意識ないしこころの歴史をこちらからぐっと掘り下げてゆくといったかかわりは、あんまりしません。それよりも、視野を周辺にひろげてゆくようなかかわり、それをフロイト的な意味で無意識と呼べるかどうかはともかく、それによって気づかなかったことにふと気づいたり、目が開かれたりして、少し自由性が増すようなかかわりをこころがけている気がします」
「「運転の失敗」による300人の死は騒がれないわりに「育児の失敗」による60人の死は大問題になるのです」
「ほんとは、子育ての水準が低下してアビューズが次々起きる「深刻な社会」になったのではなく、子育ての水準が高くなったためにアビューズが「深刻な問題」として焙り出される社会になったとういことですね」
「子育ての深刻な失敗、つまりアビューズを生むサイコロジカルな危険要因を挙げれば、養育者の「ゆとりの欠如」と「心理的な孤立」ですね。現代家族における経済貧窮は、この二つをともどももたらします。こうした現代の「貧困問題」としてアビューズへの取り組みを考えないと、ひろい解決にはならないでしょうね」
「1000人に一人ほどは家庭養育が困難なケースがどうしても出てくるのは、子育てというものの定めかもしれません。この定めに対して、地域のなかに一般家庭サイズの小さなホームをいっぱい分散させて、人々の身近に溶け込んだかたちで濃やかなケアができるシステムがベストでしょうね。」
「なにか好ましくないこと、不幸なことが起こった場合、それがなにかから受けた傷つき、被害として捉えられる傾向が強まって、これは自己責任のきつい社会、問題が個人化]する社会の中で「エクスキューズ」が求められるという現象と重なっている」
「障害を持つ子の親たちが互助的なサークルやグループを作りますね。その親たちでなすべきことは、専門機関やそこの専門家に支援サービスの実施や充実を求めるよりも、自分たちのサークルで主体的にケアや相互支援の活動を組織して、そこにかれらを「借り上げる」ような関係をつくること」
「病気や障害が薬を飲むのではありません。薬を飲むのは、ひとりの個人です。医者は病気に合わせて薬を出すのではなく、その個人に合わせて薬を出すのです。」
「服薬の心理−薬物療法と精神療法の接線−」
「言葉がほんとうにこころに落ちるためには、どこか身体につながっていなくてはいけない」
「凶悪犯罪で比べるなら、精神障害者再犯率は6.8%で、一般犯罪者の28.0%にくらべて、さらにずっと低い」
「現場のリアリズムを支えるのは、なによりも洞察力であり想像力であり、鋭敏な感受性である。加えてタフな実務性。実務性とは、与えられた現場に、あれがないこれがないと不満ばかり並べるのではなく、手持ちの人的環境と物的環境をどうフルに活用し、最大限の結果を引き出すか、そのことに労を惜しまないあり方である。」

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「こころ」はだれが壊すのか (新書y)

「こころ」はだれが壊すのか (新書y)

紀伊国屋BookWeb掲載の書籍紹介及び目次は下記の通り。

「こころ」はだれが壊すのか

犯罪者は「障害者」なのか。
児童虐待」は「保護」されて一件落着か。
「障害」の早期治療とはなにか。
教師の「こころ」はなぜ蝕まれているのか。
…こうした「問題」の背後で進む、なにかにつけ医療に「お任せ」、精神医療言説に「お任せ」、あなた任せの「精神医学化」する現代社会固有の弊害は、「社会のふところを浅くする」ところにある。
練達の精神科医が根底から問い直す。

序章 「こころ」についていくつかのこと―フロイトの関係発達論から(前著『「こころ」はどこで壊れるか』を振り返って;フロイト「理論」の受け継ぎ方 ほか)
第1章 「ふところ」を浅くする現代社会(「精神医学化」する社会―DSM再論;「問題」をなぜすぐに医療へ委ねてしまうのか ほか)
第2章 「児童虐待」の語り方に異論あり(「児童虐待」の問題の概要;「逸脱」と「虐待」の距離 ほか)
第3章 「学校・子ども」問題への治療的アプローチ(学校現場に「競争」は必要か;学校の競争原理とはなにか ほか)
第4章 精神医療と司法―大阪・池田小事件以後(大阪・池田小の事件から;「詐病」は見抜けるのか ほか)