大学教育の効果とは、「学び習慣」を身につける効果

大学の勉強が実社会で何の役に立つのか、というのは、特に教養系の教科でよく言われることだと思うが、それについて取り上げているブログ記事を見つけた。

大学での学びと会社の仕事の間(大学教育改革というお仕事:2006/08/18)

今月の『IDE現代の高等教育』(2006年8-9月号)のテーマは「キャリア開発支援と大学教育」。その中で面白いと思ったところ。

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矢野眞和「大学の教育とキャリア形成」では,自身が行った,大学卒業生を対象にした,大学時代に学んだ知識と会社の仕事の間にどのような関係があるのかという調査結果が紹介されている。

それによると,「大学での学習や読書は現在の所得の向上に直接的な効果をもたらさない」とのこと。つまり「大学時代に一生懸命勉強しても,将来の所得向上上昇には結びつかない」のである。

むしろ所得向上に効果があるのは,「現在の職場でどれだけ熱心に勉強したり,読書したりしているか」ということ。つまり「大学よりも,職場の勉強が重要だ」という結果になったという。

しかしながら,これを短絡的に解釈してはならないと矢野は言う。職場での学習能力は,大学時代に学ぶ経験ないし習慣が身についているかどうかによる。そこで彼は,大学教育の効果を,大学の「学び習慣」効果と呼んでいる。

続けて彼は言う。学ぶ内容は「実務であれ,教養であれ,専門であれ,何でもよい」。しかし実務だけで終わらないのが大学の良さであり,使命だ。実務の知,教養の知,専門の知の相互運動が知識能力の向上をもたらす。そのうち,それらが決して体系化されていないことに気づくだろう。そこまで来れば,大学の研究のはじまりになると。

所得との相関で調べているようなので、いわゆるキャリアの個人的満足感とどこまで結びつけられるかは何とも言えないところがあるが、この「学ぶ経験及び習慣のインストール」は重要なことだと思うし、何もこれは大学に限らず高校だって同じではないかとも思う。

そういう意味でブログ管理人の獅子丸さんの書かれているこの文章に深く同意。

これだけ知が世の中に溢れかえっている時代,そしてその知が塗り替えられるスピードも速い時代に,学ぶべきは,コンテンツではなく,学ぶスキルや学ぶことに対する態度なのかもしれない。

職場で求められるスキルだって同じなのだ。変化の早いこの時代、身につけたスキルは瞬く間に陳腐化する。だからこそ次には何が必要になるかきちんととらえて身につけると同時に、表面的なアプリケーションスキルだけではなく、もっとレイヤの深い抽象化できるスキルを基礎に持っていないと、いつまでもスキル習得に振り回されてしまう。
このあたりは高橋・金井共著の「キャリアの常識の嘘」で高橋氏がこのように書かれている。

資格や知識・経験というのは、いくら量を増やしても、それが自分のなかで抽象的に整理されていなければ、戦力として判断されない。重要なのは、それらの資格や知識から、汎用性のあるスキルをどれだけ普遍化していけるかのほうなのだ。
だから極端なことをいえば、専門知識をたくさん知っている人より、知識はないが必要とあらば三カ月で身につけられますと学習能力をアピールできる人の方が、変化の時代には高く評価されるのである。

「すぐに使えるスキルは何ですか」「手に職となる資格は何ですか」と言ってる人たちにはぜひこの文章の意味をよく考えてほしいと、いつも思う。

キャリアの常識の嘘

キャリアの常識の嘘

8/23追記:
一般論ばかり言うのも何なので、自分自身のことも考えてみる。
私はいわゆる英文科の卒業だ。ゼミはイギリス演劇。サブゼミでアメリカ演劇のゼミにも出席していた。卒論は単位のひとつでしかなく、必修ではなかったため書かなかったというぐうたら学生だ。
学部で勉強したことが直接何かの役に立つなんてことは、英語の教師にでもならない限り考えられなかった。シェイクスピアアーサー・ミラーが一体仕事の何の役にたつだろうと。
そして今どうかというと、英語をきっちりしっかり学問として勉強したことは意外と役に立っているし、英語に変な苦手意識がないのはありがたい。そして何より、文学を学ぶということは人間や社会を学ぶということであることにも今さらながら気がついた。生き方というか、生きざまというか。そういうことは自分という人間の深みを少しでも持たせることに多少なりとも役立っていると思う。引き出しを増やしてくれているのだ。直接業務に関係する知識ではないが、だからこそ自分のベースになっているものがあるということで、ひそかな自信の源になるという意味で、生きるのに「役立っている」と思っている。