「Nobody's perfect.」と本田由紀先生語る

先日法政大学で開催されたキャリアデザイン学部シンポジウムでも、ヒールもといカウンターパンチもとい舌鋒鋭い批判をされていた東大本田由紀先生。朝日新聞で始まった連載でも持論を展開されている。

若者の厳しい今を知っているか 「誰も完璧(かんぺき)ではない」本田 由紀が語る仕事―1 asahi.com:朝日新聞就職・転職ニュース(2007/06/03)

落ち着いて安定的で、家族を養いながらごく普通の暮らしを営めるような仕事がどんどん減っている。それが今の若者が追い込まれた状況です。正社員も非正社員もそれぞれに苦しい状況のもとで、何とか耐えていける仕事をいかに選ぶか。親世代が経験したことのない仕事の時代を若者は生きています。

誰も経験したことのない時代を生きようとしているのだから、スムーズにいかなくて当然なのだろう。

世の中が不透明化し、煙が渦を巻きながら立ち込めているような状況で、個人はどうやって対処していけばいいのか。とても大変な課題です。その中で、教育界や財界、政府などがそれぞれ、「人間力」とか「社会人基礎力」とか「就職基礎力」を身に着けさえすれば何とかなるといった言説をせっせと生み出している。一般の若い人にとっては「そんなこと言われても」と戸惑うような漠とした無責任な要請を、権力や諸資源を手にした年長世代が投げかけている。

「『人間力』っていうな!と言いたい。だいたいここにいる皆さんが本当にこの『就職基礎力』を現在全部もちあわせているんですか?」と本田先生がシンポジウムの場で言った時、会場はどっと受けたが、私は笑えなかった。ギャグじゃない、これは。自分の持ってないものをどうして他人に身につけろと堂々と言えるのか。

軟らかな鎧(よろい)を着て、社会へ 「誰も完璧(かんぺき)ではない」本田 由紀が語る仕事―2 asahi.com:朝日新聞就職・転職ニュース(2007/06/10)
こちらでは本田先生の就職についての経験談オーバードクター奨学金打ち切られて苦労して卒業したはいいが、という経験をお持ちだった。正直意外だった。

そんな思いをして勉強したのに、どこにも行く先がない。社会がまったく私を必要としていない事実、自分の居場所が見つからない苦しさ。だから、正社員として就職できない今の若い人の悔しさやつらさが、自分のことのように思えるのです。それでもとにかくいくつも受けて、ずいぶん落とされ、やっと拾ってくれたのが、日本労働研究機構(現労働政策研究・研修機構)という、厚生労働省の研究機関でした。私の専門である教育社会学とはやや違う分野ですが、これまで身に着けた調査方法も生かせるし、何よりお給料が出る(笑い)。それで十分ありがたいことだと思えました。

教育社会学を専攻する身でありながら労働研究の場で働くという経験が後のキャリアを切り拓いた、と終わってみれば言えるが、当時の本人にとっては胃が痛くなるような日々だったかもしれない。

若い人にも、最低限、最初のベースとなる専門性を軟らかい鎧として身に着けて欲しい。素裸で出てきてほしくないのです。その専門とぴったり合致する職種に就けなかったとしても、素地があれば関連付けたり転換したりしながら、自分を守りつつ仕事を続けられるからです。

 一生食べていける専門性など、これからはない。だから強固な鎧ではなく、軟らかい鎧で社会に出て、脱皮しながら成長していけばいいのだと私は思います。

本田先生が「専門教育」にこだわる本当の理由がようやく少しわかったような気がした。「職業専門教育」にこだわっているように見えていたのは私の理解不足だったのだ。(と言うか、ちゃんと著書も読んでないのだからそんなこと言える筋合いでもないのだが)彼女の言う「専門性」とは少しは切り売りもできる、自分を守る「やわらかな鎧」としてのものだった。

不安の大きい若者たちは固い鎧を求めて右往左往しているように思えるが、本田先生の言う通り「脱皮しながら成長していけばいい」のだ。「自分らしさ」もあとからついてくるもので、最初からジャストサイズのものなんかない。もしあったとしてもそのうち窮屈になっていずれにしろ脱皮するだろう。

ちなみに「Nobody's perfect.」とは、シンポジウムの最後で本田先生が繰り返していた言葉。人間に完璧などありえないのだから、若者に完璧を求めて追い詰めるのはやめてほしい、と。記事連載タイトルの「誰も完璧(かんぺき)ではない」はその言葉から取られているのだと思う。