嫌いな人の中に「自分」が見える

NB Online連載の「ワークショップ『イッセー尾形のつくり方』見学記」より。毎回うならされる記述が多いが、今回は特にストレートに響いてきた。

イッセー尾形流「人生コーチング」〜(8)世界は「脇役」でできている(NB Online:2006/09/06)
まず、「自分の長所、欠点を言う」ということをやってから、次に「それが誰かは明かすことなく、この中で「嫌だと思う人の欠点をあげる」」。

「自分のことになると口が重くて、あたりさわりのないことを言っていたのに、他人だとこんなにもしゃべってしまうものなんだということがわかるでしょう」

 それくらい「自分」のことになると客観的に捉えることはできないという、具体例でした。一方で、「他人」のことになると、お節介なくらい饒舌になってしまう。

その次に「嫌いな人を演じる」という課題をやった時。

 「あなた方がいま話した嫌いな人の特徴は、ぜんぶ『自分』にあてはまるものだと思ってください」

 参加者から笑いが起こりました。

 嫌いだと思うポイントは、自分の中にも潜んでいるものです。

 癪に障ったり、気になってしかたないのは、否定したい一面であるから。そして、嫌ってしまうのは、対極に見えて、とっても近しい。なりたくてもなれない、自分の願望の反映でもあります。まったく無関心であれば、「キライ!」とまで強く意識することもないでしょう。

つまり、「要約すると、この稽古は、演劇という方法を利用して、視点を切り替えてみようということ」なのだ。

 「あなた方が嫌いだと思う人は、しゃべり続けているという印象が強いんだろうけど、その人だって、黙っていることはある。それを思い出してみてよ」

 「しゃべろうとしなくてもいいから。その人のことを思い出してみて。うんざりするほどおしゃべりで、お節介な人というふうに片付けがちだけど、ひとりで延々としゃべり続けるというのは、実はすごいこと。こちらが聞いてないと思うと、『あら、あんた聞いていないわね』とか、『あっ、そのバッグいいわねぇ』と突然、話題を変えてみたりするんだよね」

 「でも、ああ嫌だ、うるさいなぁと思ってしまうものだから、その人のことを一方的にしゃべっているふうにして記憶の中で処理してしまっている」

言われてみると確かにそうで、自分の中でいやな人の言動ををステレオタイプに処理しているのだということに、自分自身読みながら気付かされた。

 「ふだん小さな声の人が、大きな声を出すのは、自己解放になる。でも、自分を壊すような仕方で、自分を変えていこうとするのとは、ここでやろうとしているのとは違うから」

 自分を否定する(いじめる)のではなく、欠点のある自己を認めて生きようとするのがこのワークショップの大きなテーマだったように思います。

「自分を変える」イコール「現状を否定して違う自分になる」と考えがちだが、実はそれは長続きしないし効果は少ない。「欠点のある自己を認めて生きようと腹を括る」ことこそ、変化への第一歩なのだ。