企業に評価してほしい「勉強した私」って?

噂の朝日新聞7月29日付け「私の視点」への東北学院大4年・八木宏樹さんの投書「企業は学業も評価して」。
あまりにつっこみどころ満載なので、野暮とは思いつつコメントを入れさせていただきたい。

 本格的な夏が近づいてきた。いまだ内定を獲得していない大学4年生にとってはまさに正念場。最後のチャンスをものにすべく、必死の挑戦の日々が続く。

ここは導入部なので特にさしはさむ感想はない。

 私自身は大学院志望のため、それほど熱心に就職活動をしたわけではない。それでも数少ない経験の中で、多くの企業が「勉強以外に頑張ったこと」とか、コミュニケーション能力をことのほか重視することに気づかされた。学力は、一次試験でも最低限のものが問われるだけで、ほとんど重視されていないのだ。

ここで早くも疑問がいろいろと。
まず、「大学院志望なのであまり熱心でない就職活動を少々した」って、それって一体何なのか、と。もし内定を取れなかったのならば、そういう姿勢って自然と相手に伝わったという可能性もあるような気がするのだが。
次に、「学力は、一次試験でも最低限のものが問われるだけで、ほとんど重視されていない」とあるが、彼にとっては「最低限」でもそれがすべての人にとって「最低限」とは限らないのではないか。と言うか、何を持って「最低限」と言っているのか。質か、量か。また、試験では難しい問題は出していなくても、成績証明書でスクリーニングはしているのではないだろうか。
私が某外資系IT企業を受けた時はしょっぱなからえらく難しい適性試験を受けさせられたが、彼の言う「学力を問う」というのはそういうものでもなさそうに見える。とすると、大学入試のような問題を出せと言っているのだろうか。よくわからない。

 確かに「勉強一辺倒」よりも、ほかに「熱中する」ものがあるほうが人間の幅が広いようにも見えるだろう。また、仕事をする上で、社内はもとより社外との関係で、コミュニケーション能力は必須だ。就職してもミスマッチで辞めたり、若者のコミュニケーション能力の低下が各方面で問題視されたりしているから、こうした能力重視の流れは必然とも言える。

「百歩ゆずって」的に書かれているが、「若者のコミュニケーション能力の低下」って、筆者自身「若者」として本当にそう思っているのか、これは素朴な疑問。あと、就職後のミスマッチとコミュニケーション能力は因果関係はあまりないと個人的に思う。

 しかし、大学は本来、真理探求の場であり、大学が大衆化した現在においても、その理念は生きている。つまり、学生の本文は学業のはずである。そうであるなら、学生本人の意思もさることながら、企業を含めた社会も大学という環境を整える責任があるのではないだろうか。

大学が学びの場であるということは、実態論はともかくとして賛成なのだが、「社会が大学の環境を整える責任がある」って、一体どこからそういう話が出てくるのか申し訳ないがさっぱりわからない。学生の本文が学業になっていないのは全部社会が悪いってこと?企業が「勉強しないで他のことをしていた人達」ばかりを採用するから?いやそれは初めて聞いた驚いた。

 現実は最低限の学力と、最大限の対人能力が内定獲得の必須条件になっている。このような状況の中で、勉学を大学生活の価値序列の筆頭において日々を過ごすことは不可能のように思える。勉学に打ち込んでいる人より、アルバイトや遊びを生活の中心にしている人のほうがアピールできるなんて。

「最低限の学力と、最大限の対人能力が内定獲得の必須条件になっている」というのは、そういう企業もあるかもしれないけど、自分が経験した数少ない事例を一般化するのはやめておいたほうがいいと思う。と言うか、この二つって二元論で語れる種類のものではない。
「勉学に打ち込んでいる人より、アルバイトや遊びを生活の中心にしている人のほうがアピールできる」というのも、そういうケースもあるかもしれないが、それが全てではない。
アルバイトにしろ学業にしろ、そこから何を「学ん」でこの先どう生きていきたいのか、企業が知りたいのはそこではないのか。

 アルバイトなどの経験も確かに重要だが、そんなに社会的経験やコミュニケーション能力を重視するなら、なにも大卒新人をとる必要はない。すでに経験を積んだ派遣社員やアルバイト、フリーターを採用するほうが有益ではないか。

この段は、ここだけ読めばそれは確かにその通りだし、通年採用市場はまさにそういう理論で動いている。しかし新卒は(新卒同時期採用という手法が本当にいいかどうかという議論は別として)期待するものは「社会的経験やコミュニケーション能力」が主ではなく、もっと大雑把に「この会社で一緒に働きたいと思えるかどうか」ではないか。そしてそれはお互い様、だ。企業も学生を選ぶが、学生だって企業を選ぶことができる。

 そこで、学業への努力が報われ、学生が勉学に励む環境を整えるために、企業や採用担当者にお願いしたい。大学での成績をもう少し重視してほしい。仕事と結びつかない資格でも、努力の証しとして評価してほしい。それが無理なら、せめて募集案内に、
 「一生懸命勉強した人も大歓迎!」
 と書いてもらえないだろうか。勉学に励んできた人が救われるはずだ。
 (終了)

筆者の言っている「勉学に励む」って一体どういうことなのかがよくわからない。「優」をたくさん取ることなのか。バイトやサークル活動をしていないことを不利に扱わないでほしいということなのか。そこが抽象的なままでは議論にもならないだろう。
勉強は確かにできそうだが、柔軟性がないため周囲の人との軋轢を生み、仕事がうまくいかない人達(主に高学歴校出身者に多い)をそこそこ見ている身としては、「一生懸命勉強『だけ』した」と胸を張って言われると、「この人職場でうまくやっていけるのかな」と正直不安になると思う。

本田由紀さんはエントリの中で

やっぱりちょっと今の企業のやり方はいくらなんでもおかしいんじゃないか、という率直な感覚が若者自身によって表明されたこと自体をまず高く評価したいし、そしてこうした感覚が社会に広がり分け持たれることによって、企業の行動を変化させうる可能性があるのではないかと考えるからだ。何よりも、彼の感覚は、本質的にまっとうだと思うからだ。

と書かれている。なんだかよくわからない「人間力」重視な企業の評価に対して批判的に感じていらっしゃるのは理解できるが、その反証としてこの投書はちょっと弱すぎると思う。と言うか、これって大学の学問のあり方に跳ね返って来ることではないのか。

筆者には申し訳ないが、ここで筆者が言ってるのは結局「いっぱい勉強した僕がなぜ採用されないんだ!バイトしてないからか!コミュニケーション能力がないからか!」ということのようにしか私には見えず、共感しにくいのはそこなのだ。そう読んでしまうのは私の読解力が貧しいせいかもしれないので、違っていたらお詫びしたい。

本田さんのところのコメント欄id:mkusunokさんが

大学では就職先の需要と関係なしに勉強しておいて,俺はこんなに勉強したから会社は採用に当たって評価すべきだというのは,あまりに独りよがりの考えという気がするのですが如何でしょうか

と書かれているスタンスに私も近い。もちろん今の企業が正確に「需要」を伝えているかどうかという問題もあるのだが。入社後のミスマッチを減らすためにも、リアリティショックを軽減するためにも、RJP(Realistic Job Preview、現実主義的な仕事情報の事前提供)が必要だなあ、というのはまた別の話。