「わからない」という宙ぶらりんに耐えられる力

日経ベンチャー経営者クラブONLINE連載の辰巳渚さんのコラム「辰巳渚のニュースのツボ」は毎回楽しみに読んでいるが、今回の最新記事「
「わからない」という問題意識から導かれるシンプルな真実」も相変わらず示唆深く面白かった。

「ある20代前半の子が、『わからないのは嫌なんです』と言っていた」と言った。自分のこともきちんと説明できないと嫌だし、読んだ本に明確に答えが書いてないのも嫌。決して考える力がない子ではないのに、「わからない」のが気持ち悪いのだという。だから、わかるまで徹底的に考え行動するよりも、「わかった」とすぐに思える答えを求める。戦後の世の中が、こういう若い世代を作ってきたのだろうか。それとも、社会の構造が変化する一方で情報過多な状態がつづいたために「わからない」を放棄せざるをえない世代が生まれてきたのだろうか。

世代論でひとくくりにするのは好きではないし、自分が年若かった頃を思い出しても、若者というのは年寄りから見ればいつの時代も傲慢でせっかちで最短距離を行きたがるものだ、とは思うのだが、それでもこの「わかりやすさ」への性急さと「わからないことへの恐怖」はここまで先鋭的ではなかったと感じている。なので、この中で書かれている「『わからないのは嫌なんです』」という言葉は実にリアルに感じた。自分の中でわからなさが残るのもいやだし、他人に「わからない」と言うのもいやなのだろう。

こんな話を聞くといつも思うのだが、場合によっては「わからない」という宙ぶらりんに耐えられる力が必要なのではないかと思う。宙ぶらりんは誰だってに居心地はよくない。できるだけ早く白黒つけたくなる。しかし、人の心を考えればいつだって白黒つけられるものではないし、それは状況だって同じだろう。
一足飛びで自分の望む仕事をやれることはそう多くはない。待たされることもある。一人でかっこよく解決できる問題なんか実はそう多くない。多くは他人の手を借り、それでもダメなら時間の力を借りることもあり、中には最後までどうにもならないことだってある。
吉本興業の横澤氏が新人研修の講演で言う「壁の前でうろうろしろ」という言葉は、実に難しいことを要求しているのかもしれない。でもそれは「真実」なのだ。