性犯罪とパワーへの飢餓感

斎藤学ブログ「性犯罪者治療の可能性について(2/3)」より。

 彼らのうち強制猥褻のケースと窃覗癖のケースについては、いずれも犯人となった青年たちの無力感と絶望、そしてそれを克服するパワー(権力)への飢餓感があったと思います。
 もちろん、こうした飢餓感は、犯罪、特に性犯罪の発生をそれだけで説明できてしまうようなものではありません。しかし「襲撃対象(無力な被害者)を意のままにする(強い)自己」とか「視られていることに気づかない(つまり、まったくの無力状態にある)被害者に対して、視る自由という権力を恣意的に用いることのできる(つまり強者の)自己」という強者・弱者の対比がこれら青年たちにとって魅力的な幻想であったことを自覚して頂くことで、「犯行を必要としていた自己」に気づくという効果はあったと思います。
 この点をしっかり押さえられれば、このパワー渇望を「社会と折り合える形」で表現することも可能でしょう。

(強調はブログ管理人による)
以前AERAに載っていた痴漢に関する記事にも似たようなことが書かれていた。もしかしたらそれも齋藤氏にインタビューしてのものかもしれないが。いずれにしろ、性犯罪の再犯率の高さを考えると、治療するにはこういった「パワーゲームへの嗜癖(つまり依存)」という視点も必要だと思う。そしてそういった依存が生まれる背景には、児童期の虐待も潜んでいるような気がしてならない。別記事で齋藤氏は

現代の臨床犯罪学ないし精神医学は児童虐待という項目抜きには語れないでしょう。例えばアメリカの神経内科医ジョナサン・ピンカスは自分の出会った殺人による囚人150人の94%が児童虐待の被害児であった過去を持つと言っています。

とも書いている。