幸せのかたちはひとつではない

昨年後半から何かにつけて取り沙汰され、とうとう国会の場にまで持ち込まれた格差論議。NV-CLUB ONLINEでの辰巳渚さんのコラム「『幸せ』を計る指標」が、格差論議にうんざりした気持ちと、そもそも格差って何なのか?という釈然としない疑問に対してすぱっと気持ちよく一刀両断にしてくれた。

 さて、私たちは、幸せになるために生きている。稼ぎ高や貯蓄残高を増やすためでも、肩書きを増やすためでも、より広い家に住むためでもなく、与えられた数十年の人生の瞬間瞬間を、よりよく、より幸せに暮らすために生きている。それは、笑いたくなるくらいにバカ真面目な建前かもしれないが、これを否定する人はそうはいないはずだ。そして、バブル崩壊後、閉塞の10年を過ごし、環境の 21世紀を迎えるにあたり、私たちは「人の幸せはお金や発展だけではない」と学んだはずではなかったのか。
 人の幸福は、お金では計れない。つまり、人の幸福は、経済指標では計れない。すでに70年代にはGNP(GDP)を疑う議論が生まれているのに、私たちはあいもかわらず20世紀に世界と日本を支配した「経済」という視点から抜け出せずにいる。

意識レベルは戦後高度成長社会及びバブル社会から何ら変わっていないのではないか、という警鐘。実際のところそれは発言力のある人たち(高年齢、高収入、高ステータス等)の意識がそうであって、少数ながらじわじわとゆるやかに変化はしているのだが、なかなかそれはマスコミで取り上げられることはなく、「存在しないもの」となってしまっている、そんな気が個人的にはしているのだが。

「生活が苦しいと感じている人が増えている」という意識調査ほど、操作しやすいものはない。人の意識は、メディアの論調や景気という気分でいくらでも変わる。くりかえすが、私は、所得格差があるのがいい、ないのがいい、と議論したいのではない。個人的には格差がない社会などありえない、と思ってはいるが、誰もが「世の中には格差があり、うまくやっている人が上・勝で、うまくやれない私は下・負のほうなのだ」と納得してしまっている世の中は、歪んでいると思うのである。

「操作しやすい」がゆえに、日曜に紹介した大竹先生は「一筋縄でいかない」というまさしく一筋縄でいかないコメントを寄せられたわけだ。
ひとつのものさしだけで自己評価する世の中なんか、気持ち悪いと私も思う。

 政治家や行政府や企業人が、世の中のシステムを作り動かそうとするときに考えることと、一個人が自分の暮らしを作り動かそうとするときに考えることは、違う立脚点にあるべきではないだろうか。経済指標でもなく意識調査でもなく、ほんとうに個々人の「幸せ」を計る指標があればいいのだけれど(そしてそういう試みはなされてきているけれど)、幸せとは指標にならない個別の、曖昧なもの。指標に頼らないたくましさを、私たちの社会はどうやって個人の身につけさせることができるのだろうか。

国家のグランドデザインと個人のライフデザインは、相互に影響はあるけれどもそもそも立脚点は別だろう、ということ。
極論すると、個人の幸福感が他者との比較を基準にしている限り、格差論議はエンドレスだろう。700万で足りない人もいれば、300万で足りている人もいる。消費させたい側の思惑に乗って「消費しないひとたち」イコール「下流」イコール「コミュニケーションしない人たち」なんていう三段論法に振り回されることはないのだ。
そして、社会づくりの視点からは、求めるものへの挑戦のチャンスがあることが大切だと思う。