有名大学卒が重視されたのは「選別機能」を期待してのものだった

「人物本位採用」の本音と建て前(PRESIDENT Online:職場の心理学2006年1.16号第138回)
企業のウェブサイトにはよく「当社は学歴に関係なく、人物本位であらゆる大学から採用しています」と書いてあるが、実際のところは決してそんなことはない実態。なんでそうなっているのか、どうして高偏差値の大学出身者を多く採用しようとするのか、この記事を読んでやっと納得できた。

企業自身があまり大学教育に多くを期待してはおらず、むしろ余計なことを教えてもらわないほうがよかった。入社後に時間とお金をかけてじっくりと育成し、自社の色に染め上げればそれで十分と考えていた。それならなぜ大学名にこだわるのか。いうまでもなく大学には“入学試験”をクリアしたという潜在的に質の高い労働者の選別機能しか求めていなかったからである。

つまりそういうことなのだ。高偏差値の大学に入学するということは、疑問なくそういう努力をできる人間だということで、企業がほしいのはまさにそういう人間だから。その目安として大学名を使っていたわけで。
実際私は地方国立大学の出身だが、役員面接の時は高校時代のことしか聞かれなかった。なぜだろうとずっと疑問だったのだが、これを読んで腑に落ちた。うちの大学の選別機能が信用されていなかったのだ。私の出身高校は元旧制中学で県下トップの進学校だったが、大学は偏差値は決して高くなく、ただ地元ということで偏差値に関係なくその大学に進学する人間が(特に女性に)多かった。そこで高校時代の成績や部活動で判定しようとしたのだろう。

しかし現在は経営環境は大きく変わり、記事によると「会社が求める人材像も従来の管理・調整能力型ではなく、最近は先行き不透明のビジネスモデルに果敢に挑戦する“異能・異才”タイプが好まれ、中途採用にも積極的に乗り出している。」。それでも有名校重視の姿勢が消えないのはなぜか。それは人事の評価制度にあるらしい。

「人事の立場から言えば、やっぱり偏差値の高い大学の学生をたくさんとったかどうかで評価されてしまうし、これはある意味つらいところでもあるんです。たとえば、今年は東大からの採用者が一人もいないとなると、何をやってるんだということになる。人事としてはいい学校からたくさん来てもらいましたと思われなくてはいけないし、現場の事業部、役員を含めて社内にアピールする必要がある。大学でいえば旧帝大、早稲田、慶応、それから一橋、東工大ですね」

会社によっては裏目標として「東大○人」というものもあるらしい。まず変えるなら、採用担当の評価基準、ということか。
ちなみに入社後の昇進には、学歴との相関はかなり少なくなってきていると言う。実感としては、むしろ高学歴で仕事がいまいち、の方が大きくネガティブにふれやすく、昇進も時間がかかっているように感じる。下手に学歴が高いだけに「○○卒のくせに」と逆効果になってしまうのではないか。嫉妬も含めて。