「経営学習論」中原淳 著

東京大学中原淳先生からご恵投いただいた最新著作「経営学習論」。発売日にお届けいただいておきながら記事を書くのが非常に遅くなったことに大変恐縮しつつ、書評と言うのはあまりにおこがましすぎるので、覚え書きを兼ねた読書メモを書かせていただく。


本書は、中原先生がこの10年間の間に取り組んでこられた「働く人の学習」についての研究の今の時点での集大成であり、これまで日本ではなかった「経営」視点での「学習」についての理論と実践研究をまとめたものである。これまで働く人の学習や成長といったテーマについては、主に組織心理学や経営学の人的資源論で取り扱われてきたが、心理学は個人の心理に、人的資源論ではマネジメントの一環としての「人的管理」にそれぞれ視座を置くこともあり、統合的に「経営」視点での人材育成について納得のいく分析がされていたとは言いがたくなっていた。「理屈ではそうかもね、でも現場はそんな簡単なものじゃないんだよ…。」そんな言葉に跳ね返される思いを感じた研究者は少なくないのではないかと勝手ながら推察する。
そこに新たな切り口を加えたのが中原先生だった。教育学という、一見学校のみで完結しているかのように思えていた分野の視点から、「大人の学びを科学する」というテーマで切り込んで来た。人材育成の重要性が叫ばれ、生涯学習がうたわれる時代、これはまさに学術の立場からも実践の立場からも必要とされている視点であったと言えよう。


「組織社会化」「経験学習」「職場学習」「組織再社会化」「越境学習」の5つの領域から、これまで中原先生が「主に日本企業に勤務するホワイトカラー中核人材の能力形成についての探求」をされてきた内容を包括的に論じ、なおかつ今後の研究課題として「グローバル化に対応した人材育成の模索」について提示している。こういった領域をここまで一冊でまとめあげたものは、不勉強であるかもしれないが私は他を知らない。「ホワイトカラー中核人材の能力形成」に携わる仕事をしている人、そういったことに興味を持つ人は、その学術的裏付けが一冊にまとまっている「リファレンス」として、ぜひ本書を手元に置いてほしい。


本書は一言で言えば「学術書」、「“企業・組織に関係する人々の学習”を取り扱う学際的研究の総称」としての、いわゆる「経営学習論」に関する学術書である。「経営学習論」という研究領域の全体像を提示し、読者にはこの領域で研究を志す大学院生レベルの人々を想定して大学院授業のテキストできるように書かれているとのことなので、調査研究の手順や分析結果など、ふだん研究になじみのない方にはハードに感じられる記述も多いと思われる。しかしそういう方にはこの本は有用でないということは決してなく、最低限各章の最後にある「小括」をお読みいただければ、その章で説明された理論や概念、そして研究の結果と考察についてわかりやすくコンパクトに書かれているので、まずはそこに目を通し、興味を持ったキーワードなどをページを遡って探す、というやり方で肉付けをしていけるのではないかと考える。


個人的に特に興味を持ったのは、「経験学習」を通した能力向上の年代別・職種別の違い、また「越境学習」で取り上げられた「社会関係資本」との関係の部分である。


■「経験学習」を通した能力向上の年代別・職種別の違い
有名なコルブの「経験学習モデル」(具体的経験→内省的観察→抽象的概念化→能動的実験)が循環モデルとしても業務能力向上に対しても有意な結果が出ているのだが、それが年齢別・職種別にどのような差異があるのか分析している。結果としては

・1年目から2年目は「具体的経験」からのみ「能力向上」に統計的に有意なパス
・3年目から9年目はすべての要素から「能力向上」に統計的に有意なパス

というもので、2年目までの時期は「具体的経験」が「能力向上」に重要であること、また3年目以降は各要素をバランスよく経験していくことが重要となるということがデータでも明らかになっている。
また、職種別の違いとしては、「研究開発職」「営業職」「スタッフ職」の3つの母集団で分析したところ、

・「研究開発職」は「能動的実験」と「具体的経験」が「能力向上」に統計的に有意なパス
・「営業職」では「具体的経験」と「抽象的概念化」が「能力向上」に統計的に有意なパス
・「スタッフ職」は「内省的観察」と「具体的経験」がそれぞれ「能力向上」に統計的に有意なパス

というもので、職種によって能力向上に正の相関を持つものは違っていた。
スタッフ職はルーティンワーク的な業務が比較的多いと考えられるが、それらの業務に関しても内省的観察を行うことで能力向上につながりうる、というのは、これも実業務の世界を思いだすと納得できる結果である。

このような年齢別・職種別の「経験学習」の「利き所」の違いを念頭において研修プログラムを創っていくことが、これから人材開発部門には求められているのだろうと強く感じた。


■越境学習と「社会関係資本」との関係
社会関係資本」とは、「信頼感・規範意識・ネットワークなど、社会組織における集合行為を可能にし、社会全体の効率を高めるもの」と定義されている。ひらたく言うと「つながりの力」ということかと理解している。今回は、どういった社会関係資本が越境学習に影響を与えているかという調査がされた。社会関係資本をいわゆる世間一般の「一般的社会関係資本」と、職場などの限定された範囲の「特定的社会関係資本」に分け、分析したところ、一般的社会関係資本は統計的に有意な正の影響があるという結果があった。このあたりの結果は当たり前といえば当たり前で、オープンにつながりを持っている人はどんどん社外に出かけて越境学習をしているというのは充分ありうる姿だ。しかし現在の結果だけでは因果関係はわからないことと、他に影響を与える要因も存在しうると思うので、引き続きの研究を期待したい。


また、印象的なフレーズとして、メタ認知に関する下記記述を挙げたい。

メタ認知に関しては、様々な定義があるが、その概念を構成するロバストな2軸はモニタリングとコントロールである。すなわち、自己の認知に対する認知と、それに基づく評価が存在し、それを踏まえて、自らの認知過程に新たな目標設定をし、統制を行う。」

近年キャリアを考える上でメタ認知が重要な要素になっていると感じており、ワークショップなどでもそのようなことは話したりしているのだが、メタ認知というとつい前者の「モニタリング」だけをイメージしてしまっていた。しかし実際はコントロールも組み合わさって初めて本当に効果的になるのだ、と、本書の記述を読んで考えを改めた次第である。


あと、細かいことだが、分析結果でいくつか性別が要因として統計的に有意だったものがあったが、(たとえば p.83 表3-2「OJT指導員の行動が、新規参入者の能力向上に与える結果」とか、p.140 表5-6「成功体験談の線形階層モデル」 p141 表5-7「失敗体験談の線形階層モデル」)特にその点については言及がされてなく、どういうものだったのかが気になっている。本書に書き切れなかった分析がもしあるようなら、ダイバーシティという観点からも知りたいところである。


先日知人と会話していて、世の中の変化と企業組織の変化、それに伴う自分の仕事の変化を世の中のホワイトカラーたちはどうとらえているのか、何がどう変わってそれに対してどうしなければいけないと思っているのか、経営側と従業員側の意識にギャップがあるように感じるがそれは具体的に何なのか、といったことが話題になった。何かが変わってる、それに対して何かをしなければいけない気がする、でもどうしたら。
「何が変わっているのか」という問いに対しては別のアプローチを試みるとして、「どうしたら」というところについて、「ホワイトカラー中核人材の能力形成」がどのような場面でどのような要因に影響されながら進んでいくのかということについてのリファレンスブックとして本書を活用しつつ、支援者として何ができそうか様々な角度から考えていきたい。

経営学習論: 人材育成を科学する

経営学習論: 人材育成を科学する

以下、東京大学出版会のページより。

経営学習論 人材育成を科学する 中原 淳
長期化する不況の下,日本企業の人材育成は危機に瀕し,再構築のときを迎えている.いまこそ,どうしたら有能な人材を育成できるのかを模索すべきときである.これまでの研究成果を紹介・総括し,さらには独自の実証的な調査データを駆使して,組織経営における有効な人材開発・人材育成施策を展望する.


主要目次

第1章 本書の概観
1 本書の目的/2 本書で用いるデータ/3 本書の構成/4 小括
第2章 経営学習論をめぐる社会的背景
1 「経営課題としての人材育成」をめぐる社会的背景/2 戦略的な「人材育成の再構築」へ/3 経営学習論の青写真/4 小括
第3章 組織社会化
1 組織社会化と学習/2 組織社会化プロセス/3 組織参入時の学習においてOJT指導員が果たす役割/4 小括
第4章 経験学習
1 経験と学習/2 経験学習研究の展開/3 経験学習の実態に迫る/4 小括
第5章 職場学習
1 職場学習の定義/2 職場学習の先行研究/3 職場学習への実証的アプローチ/4 小括
第6章 組織再社会化
1 2つの組織再社会化/2 中途採用者の組織再社会化/3 小括
第7章 越境学習
1 越境学習/2 越境学習の深層に存在する主要な社会的ニーズ/3 越境学習の実態に迫る/4 越境をめぐる社会的実験/5 小括
第8章 今後の研究課題:グローバル化に対応した人材育成の模索
グローバル化と人材開発/2 結語