「個性ファシズム」は可能性を狭くする

キャリア・ナビゲーターとして活動している前川孝雄氏のブログ記事でこんな内容があった。

学生に"働く"を教える難しさ(キャリアナビゲーター・前川タカオの"はたらく論":2008/09/29)

ここで、学生が本音をぶつけてくれ、

おもしろいやりとりができました 。


学生  「お二方のお話を聞いていると、

     就職したら、自分を捻じ曲げて
     会社に合わせないといけないように感じます。

     僕には僕なりの"やりたいこと"があります。
     就職するって、自分を会社に合わせることですか?」

Wさん 「あなたは、それほど立派なのですか?
     そもそも仕事をするということは、
     自分の思うようになんかならないもの。
     なぜなら、一人でできる仕事は全体の一部だから。

     みなが、好き勝手に自分のやりたいことだけやってたら
     仕事にならない。

     本当に自分の思うとおりに仕事できるなと思うのは
     20年くらい働いてから、いえること。

     やりたいことだけをやりたいなら、
     就職しなくてしなくて結構。
     収入は少ないだろうけど、一人でやれる仕事を探せばいい」

学生 「・・・」
     (悲しそうな顔)

私   「キミの考え方は、もったいない。人生、損するよ。
     だって、今やりたいことていっても、
     わずか20年ちょっと生きてきて、自分が感じたこと。
 
     キミは少なくとも、これから30年は働くよね。
     物心ついてからの3倍、4倍の将来がある。

     キミ自身すら気づいていないキミの可能性を
     そんな短い時間で考えたことで決めてしまうの?

     キミよりさくたんの人生経験ある
     大人たちが作った会社、そこで与えられた
     自分では考えもしなかったことをやってみることで
     意外な自分の可能性に気づいたりするものだよ。」

学生 「・・・は、はい」
     (少しだけ明るい顔)

就職前の学生の感覚と、働いてきた社会人との感覚の大きな違いがよく現れたやりとりだと思う。

特に


「会社に合わせる=自分を捩じ曲げる」


という表現に、「個性は正、無個性を悪」という教育を受けてきた世代ならではのものを勝手に感じてしまった。もちろん人それぞれの個性は最終的には可能な範囲で尊重されるべきだと思うが、社会の中では優先順位があり、すべての場面でそれを要求することは難しい。にもかかわらず「個性実現」を「要求貫徹」してふりかざす姿を私は勝手に「個性ファシズム」と呼んでいる。
(類義語に「夢ファシズム」というものもあり、「夢さえあれば人間は何でもできる」的な夢を振りかざして他人にも強制することを指す。)
いずれもそれを推進する大人たちがいて、彼らの声が大きい中で教育を受けてきたことと、社会環境が「共通の価値観」を失う(そもそもそれ自体幻だったかもしれないが)流れの中で、よりどころを「個性」や「夢」にせざるを得ない事情はあっただろう。

しかし、前川氏の言うように、「個性ファシズム」に陥っているのはある意味「もったいない」状態だ。自分で自分の選択肢や可能性を狭めていることになるのだから。どこかで脱皮する必要があるはずだ。そういうことは社会人の先輩として愛情を持って伝えるべきだろう。

とは言え、Wさんの言い方ではいくらちゃんと愛情を持って話していても相手には受け入れられないと思われる。「私」(前川氏)の言い方との組み合わせがベターか。